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 カーナ王城の中心、宮殿の地下。
 そこに、広大な空間がある事を知る者は、少ない。
 王室と、ごく限られた関係者のみが立ち入る事を許されるそこは、地上の宮殿に隣接する大神殿より尚古い、秘匿されてきた神殿である。
 カーナの守護神竜バハムートを祀る、正当なる神殿。
 その最深奥、石と化した竜の前に――

「バハムートよ……目覚めぬ、と言うのか?」

 壮年の男が一人、立ち尽くしていた。
 油で整えた金髪。目元や口元に刻まれたしわ。険しく寄せられた眉と、鋭い緑眼。白絹の長衣と、その上に羽織った、やはり白の裾を引きずるほどに長いマント。金糸でカーナ王家の紋章が刺繍されたそれは、王族にのみ許される物で――この男こそが、第二三七代カーナ王だと雄弁に物語っている。

「何故だ? お前の守護するこのカーナが、このままベロスごとき野蛮で卑賤な輩に蹂躙(じゅうりん)されても良い、と言うのか?」
 険しく眼前の竜の化石を睨みつけながらも、王は、自分の声がほの暗い奥殿に虚しくこだまするのを聞いていた。
 そして、答えの返らない、静寂。
 それを破ったのは――王の、低い笑い声だった。
 不意に顔を伏せた彼は、クックッ、と、肩を震わせ、体全体を震わせ、ついには上体を反り返らせすらして、哄笑をさして広くない奥殿に響かせた。
「はははははははははははははははははっ! そうか! 朕では力不足、いや役不足という事か! それならばそれで面白い!」
 裏返った声が、天井に吸い込まれていく。そこに向けられていた顔を、不意にカーナ王は勢いよく化石に戻す。
 その顔には、満面の笑みがあった。
 どうしようもないほどの嬉しさに、人が自然と顔をほころばせるような――そんな健康的なものではなく、血走った目を見開き、口元を三日月に思いきり歪めた、どこか病的ですらある笑顔。
 鬼気迫るその笑顔のまま、王は高らかに言い放った。
「良いだろうバハムート! この朕の望みは退けるが良い! そしてそのまま眠り続けるが良い! お前は目覚めず、このカーナは滅びる! だが!」
 言葉を一旦切る王。叫び続けたせいか、息が上がっている。肩を上下させながらも、彼は再び、喉が張り裂けんばかりに声を張った。

 どうしようもないほどの喜悦の表情のまま。

「だが、我が娘の呼び掛けには応えてもらうぞ! 我が娘こそ、純粋にカーナの血を受け継ぐ者、正統なるドラグナー! 我が血にはお前を目覚めさせるほどの力がない故に拒絶されても致し方あるまいが、それでも! それでも、我が娘には応えてもらうぞ!」

 そして再び、裏返った哄笑が響き渡る……――




 その叫びを、その哄笑を――
 密かに聞いている者がいた。
 奥殿へと続く扉の近く、等間隔に並ぶ円柱の影に、彼女は佇んでいた。
 柱に背を預け、顔を伏せている娘。波打つ見事な金髪が、その顔に影を落としている。
 彼女は、離れていてもはっきりと聞き取れるほどギリリ、と歯を食いしばり、それでもまだ足りないのか、白いスカートを強く握り締めた。
 その表情は、激しい憎悪と憤怒に彩られていた。





§





 東の空に、どこからか昇ってきた朝日が姿を現わす。
「夜が、明けたな」
「ああ」
 最終防衛線に配備された、カーナ軍旗艦。その艦橋の窓から空を見つめたまま、ビュウは、隣に立つ男に短くそう返した。
 どちらも、――当然だが――武装している。
 カーナ軍士官に支給される黒に近い灰色の戦闘服の上に、それぞれ多少意匠の異なる金属鎧、更にその上から、戦竜隊を表わす真っ青なマントをまとっている。
 男はその程度だったが、ビュウにはそれ以上に目を引く点が二つ。
 一つは、腰に佩(は)いた剣が二振りである事。
 もう一つが、上体を保護している鋼の鎧とは明らかに不釣合いな、白くゴツい手甲をつけている事。
 隣の男のそれと比べると、無駄に大きく、無駄に分厚く、そして無駄に重そうである。
 が、重さなど感じさせない動作で、ビュウは手を無造作に上げると、溜め息一つと共に軽く前髪を掻き上げた。蜜色の前髪の隙間から、額に巻いた青いバンダナが見え隠れする。
 その動作を、どこか気だるげだ、とでも思ったのか、
「……疲れているのか?」
「まさか」
 ビュウは言下に否定する。
「寝ていないのだろう?」
「ちょっと寝てない程度でくたびれるほど、ヤワじゃない。……くたびれてるのはあんたの方だろ、義兄(にい)さん」
 反駁し、彼は隣に立つ、十歳年長の義兄を見やった。
 髪は褐色。目は紺色。顔つきは、さすが二十七歳、戦争は初めてだというのにひどく落ち着き払って、目の理知的な光を失っていない。
 だが、顔から生気が欠け始めている。
 それを、こちらの視線を受けて初めて気が付いたらしい。義兄は頬に手をやると、
「……そう見えるか?」
「よく見れば」
「それはマズい」
 と、真顔で呟く。
「副隊長ともあろう者が、疲れをそのまま顔に出しているなど……――自己管理が出来ていない、と思われてしまう」
「よく見れば、っつったろ。どうせ他の連中は気付きゃしねぇよ」
 呆れ半分で軽口を叩く。どうにもこうにも、この義兄は物事をすぐ小難しく考える癖がある。
「ここのところ出ずっぱりで、皆疲れてるんだから」

 開戦当初から、戦竜隊の出番は広範に及んだ。
 王城の警備は当然として、各防衛線への増援、そちらと王城とをつなぐ連絡役、果てには何故か物資補給まで――まるで便利屋だ。
 それらの活動は、「戦争」という状況に慣れていない隊員たちに、深刻な疲労をもたらした。

 そしてビュウは冷静な心で打算する。

 そのようなコンディションで、果たしてどれだけ戦える?

 答えは――あらゆる意味で――もう出てしまっているのだが、彼はあえてそれを意識するのをやめた。
 意識しようとしまいと、戦争はもう始まっており、戦闘は間もなく始まる。
「とにかく、無茶だけはよしてくれ。あんたに死なれたら、俺はどんな顔して姉さんに会えばいいか分からないから」
「それは私の台詞だ、ビュウ。君が無茶をすると」
 こちらを改めて見る義兄と視線がかち合う。
 その眼差しは、真剣そのものだった。
「妻が家を出て行ってしまう」

 ………………………………………………

「こんな情勢下で妻に逃げられる、など、武門の恥だからな」
「って、ちょっと待て」
「そんなわけだから、君には是非とも、家庭円満の協力を――」
「何で俺が、夫婦関係の危機の引き金になってるんだよ」
「頼んだぞ、ビュウ」
「断る」
「そんな事を言わずに」
「他人様の家庭の事情に口を出すほど、俺は野暮じゃないんでね」
「そこを何とか」
「夫婦の事は夫婦でカタをつけてくれ」
「君には義理の兄たる私を助けよう、という気がないのか!」
「そりゃこっちの台詞だナルス=エシュロン副隊長! 戦闘前にそんな話をすんじゃねぇっ!」
「こんな話、戦闘前でもないと君は聞かないじゃないか!」
「んなわけあるかっ! 戦闘前にされる方が余程聞く気が失せる!」
「それでも君は私の義弟か!」
「それでもあんたは俺の副官か!」
 そして艦橋の空気は、まだ戦端が開かれてもいないというのに、早くも戦闘時のそれに匹敵する緊迫感に包まれる――


 隊員たちの戦闘準備が整ったので、中隊長を務めている士官の一人が、艦橋にいる隊長と副隊長を呼びに来た。
 階段を上がり、艦橋に入った彼が見たものは――
「……何をやってらっしゃるんですか? 隊長、副隊長」
「ひれふぁふぁふぁるふぁろう(訳・見れば分かるだろう)」
「ひぇんひょーふぁえひょふぉーひんふ・あっふら(訳・戦闘前のウォーミング・アップだ)」
「……………………はぁ…………」
 とは言われても――
 お互いの頬をつねり合っているその姿を見て、ウォーミング・アップに結び付けろ、とは――随分乱暴ではないか(何を言っているか解ったらしい)?
 仲が良いのか悪いのかよく判らない戦竜隊の2トップの姿に、士官は、どうしたものやらと対応に――本気で――困った。




 中隊長の先導で甲板に行くと、そこには既に、出撃する部隊の兵が整列していた。
 第一、第二、第三、第四、第五中隊。戦竜隊の、主力部隊である。
 居並ぶその顔は、それぞれ、興奮、緊張、不安、焦燥の、様々な色に彩られている。
(……まぁ、仕方ないか)
 冷めた胸中で、思う。
(皆、戦闘にも戦争にも慣れてないから、な……)
 自分とは違って。

 けれど、慣れていようといまいと、有事には出撃する。
 それが、軍人だ。

「分かっているとは思うが――」
 そう切り出すと、耳につく程度のざわつきが、ピタリとやんだ。四百名以上の視線が、一斉にビュウに突き刺さる。
 それを何でもない風に受け止め、彼は隣にナルスを控えさせたまま、言葉を続けた。
「我々はこれから、最終防衛線を守っている防空師団に合流し、帝国艦隊を迎え撃つ。言うまでもないが、もう後はない」
 誰かの息を飲む音が、微かに耳に届いた。痛いほどの沈黙が、降りる。
「よって我々は、何としてでもここで敵軍を退けねばならない。――が」
 口調をいつもの砕けた感じに戻すと、隣のナルスがギョッとしたようにこちらを見た。何を言うつもりだこいつは、と言わんばかりに、そしてそんな気配を無駄に放って。
 その全てを無視し、ビュウは大きく、一つ息を吐いた。それまでただ両脇に垂らしていたせいでマントに隠れていた両手を、自分の存在を誇示するように腰に当て、それから顔を軽く伏せる。
「……ここから先は俺の独り言だ。全員聞き流せ」
 そう前置きして。
 彼は、半ば自棄っぱちの言葉を、そう感じさせないように苦心しながら紡いだ。

 まったく。
 本当に、損な性分だ。
 これで全てを終わらせられるというのに、どうしようもないエゴイズムだけは残っている。

「――正直な事を言えば、だ。俺は、誰が死ぬのも見たくはない。けれど俺たちは軍人だから、騎士だから、この国のために命を懸けなければならない。
 だからこそ――俺は、皆に言う。死ぬな。死にそうになったら逃げちまえ。それが敵前逃亡だって――構うもんか。国への忠誠も軍人の務めも騎士の誇りも、命あってのモンだろう。
 だから、皆……――死なないでくれ」

 これは、独り言だ。
 そして自分は、王国に長く仕える貴族の出身でもないし、騎士である事に格別の誇りを持ってはいない。
 でなければ、こんな事は言えない。
 例えそれが、エゴイズムにまみれているとは言え、本心から出た言葉であっても。

 ビュウは顔を上げた。
 独り言は終わり、言うべき事は全て言った。言葉を受けた部下たち――中には、彼より年上も多くいる――は、神妙な表情でこちらを見ている。
 慕ってくれていた者、懇意にしていた者、敵意を示していた者、反目していた者、取り立てた交流のなかった者。
 彼らの顔を全て見て、ビュウは、鬨(とき)の声を上げた。

「戦竜隊、出撃!」



 そしてカーナ旗艦の甲板から、色とりどりの戦竜が飛び立った。
 聖暦四九九六年、五月二十日の早朝の事である。

 

 

 

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