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 鮮やかな翡翠の色を湛えたビロードの絨毯が、地平の果てまで広がっている。
 彼方に連なる雪を頂いた山々は青く霞み、白い雲がまばらに浮かぶ空へと溶けていくようだ。
 雄大なるかなキャンベル――オレルス世界で最大のラグーンは、冠される美称もそのままに、色彩豊かな光景を惜しげもなくさらしている。青き大陸、オレルスの翡翠、空のエメラルド……――
 サラマンダーでキャンベル草原地帯を低空で飛行しながら、ビュウは目に痛いほどの圧倒的な緑に目を凝らしていた。
 もちろん、青々と広がる草原に目を奪われているわけではない。
「ビュウ、どうじゃ! 見えたか!?」
 サラマンダーを追うサンダーホークに騎乗しているマテライトの怒鳴り声。かなりの速度で飛行しているから、声を張り上げないと相手には届かない。風が耳元で唸りを上げる中でその言葉を捉え、ビュウもやはり大声で返事をした。
「まだだ――いや!」
 首を振りかけ、そして即座に否定する。
 緑の草原。山脈を源とする川が幾筋も貫く中、白い豆粒のようなものがある地点で一塊になっている。
 更に目を凝らせば、それが単純に一塊になっているわけではない事が分かった。いくつかの白い点が群れを成し、その群れがまばらに点在している。だが、やはり全体的に見れば、まばらな白い群れもまた一つの大きな塊を成していた。
「――あれだ!」
 ビュウは叫んだ。グングンと迫る白い塊。いや、それは無数の天幕の群れだった。羊毛から作られるフェルトの天幕だ。
 それを住処とするのは、キャンベルの先住民族。

「――あれが……」
 その声は、ビュウやマテライトが発したものに比べれば圧倒的に小さく、どちらかと言えば単なる独り言に聞こえた。
 だが、ビュウには聞こえた。例え耳元で風が激しく轟いていても、尚。

「大族長会議……――」

 ヨヨの呟きは、しかしどことなくワクワクしているような、そんなこれから起こる事への期待感を僅かに含んでいた。



「隊長!」
「久しぶりだな、マーカス尉士。元気そうで何より」
 天幕が群れを成す宿営地の、その隅っこの方で。かつての部下リック=マーカスとその小隊の成員たちが、すっかり待ちくたびれた様子でビュウたちを迎えた。
 あの悪夢の防空戦から既に三年。あの日に火傷と無数のかすり傷を負った彼も、今はその痕跡すら留めていない。深緑色の目は、軍人然とした険しさに満ちている。
「いえ、隊長の方こそ……それに」
 マーカスがチラリと視線をビュウの背後に向けた。マテライト、センダックに両脇を固められて、ヨヨがひっそりと立っている。
「ヨヨ王女殿下……よくぞ、ご無事で」
 と、胸に手を当て膝を突くマーカス。それに倣う小隊の騎士たち。対するヨヨは僅かに微笑んで、
「マーカス尉士、貴方こそ。あの戦争を生き抜いてくれた事、心から嬉しく思います」
「殿下……!」
 感極まったように、マーカスは言葉を詰まらせる。顔は伏せているが、唇をグッと噛み締め、鼻をすすったのをビュウは見逃さなかった。
 しかし、感傷に浸っている暇などまるでない。彼は本題を単刀直入に切り出した。
「さて、マーカス」
「はっ!」
 パッと顔を上げ、応じるマーカス。目がまだ濡れているようにも見えるが、この際不問にしておこう。
「状況は、どうなっている?」
 そう問うと。
 マーカスとその後ろの三人は、不意に顔を見合わせ、それからおもむろに、彼らにとっての遥か後方――つまり、ビュウたちから見て視線の遥か先に目を向けた。
 そこに見えるのは、一際大きく一際立派な天幕。
「……揉めています、かなり」
「どこと、どこが?」
「セグ族のドレク・カンを初めとする『森林の民』と、ケルート族のビリカ・カン以下『草原の民』が、完全に対立しています。……ドレク・カンが『そんな事で本当に姫を助けられるのか』と」
「……ビュウよ」
 マーカスの言葉を聞いて、マテライトが懐疑的な口調で声を掛けてきた。
「お前、一体どういう口車でこの族長会議を開かせたのだ?」
「いや、別に」
 対するビュウは、大した事ない風に、
「ビジネスの基本を踏襲しただけだけど」
「何じゃ、それは」
「持ちつ持たれつ、利害は一致」
「……意味解んねぇ」
 護衛役に連れてきたラッシュが背後でボソリと呟いた。肩を竦めるビュウ。
「解らないなら解らないでいい。問題は――」
 周囲をグルリと見回す。氏族の全てがそれぞれ集結し、それぞれで宿営地を築き、そして全体として二つの部族の大きな宿営地を築いている。ここに集まっている人口がどれほどかは正確には把握していないが、二十四人のカンの思惑が複雑に絡みあうのがこの大族長会議――彼らの言葉で言えば、クリルタイ。
 その中央に建てられた一番大きな天幕こそ、族長たちが会議をしている天幕。進攻の計画や部族の方向性は、有史以来、全てそこで決定されてきた。
 そして、今日も、また。
 その天幕から視線を剥がし、ビュウはヨヨを見る。
「行かれますか?」
「えぇ」
 両隣を固めるマテライトやセンダック、ラッシュたちが緊張で顔を強張らせているというのに、ヨヨだけは、ひどくリラックスしているように見えた。



 状況は、キャンベルの複雑な歴史が背景にある割りには、要点だけ絞れば案外簡単である。

「つまりそれが、『森林の民』の皆様方が蜂起に踏み切れない理由、という事ですのね?」
「……そうだ、カーナの王女」
「例えそなたの騎士が如何に有能な参謀とて、『壁の向こう』に囚われた姫を無傷で救い出す事は、容易ではなかろう」
 ヨヨの念押しに答えるのは、『森林の民』側のカンたち。すると、『草原の民』側のカンが、
「だから起てぬと言うか、ドレク・カン! それが『森林の民』の栄えあるセグ族の長の言う事か!」
「言葉が過ぎるぞ、ビリカ・カン! クリルタイでは侮辱はご法度! 口を慎まれよ!」
「だがしかし、それではいつまで経っても、我らは頭をグランベロスに押さえつけられたままぞ! それで、この大地に生きる誇りを守れると言うのか!?」
『草原の民』ケルート族の族長ビリカ・カンの言葉は、ビリビリと、胡坐を掻いて天幕に居並ぶ他のカンや、出口近くの下座に座るビュウたちを打った。
 が、それに応答を返すのは、しわがれた静かな声だった。
「……誇りのために、『壁の向こう』――王都の駐留師団の虜囚となった同胞たちを見捨てよ、と? いや、他の同胞たちならばまだ良い。だが、聖なる『白き鹿』の末裔(すえ)たるルド・アルヴの姫のお命まで危険に晒す事は、決してあってはならん事だ。我々のためにも」
『森林の民』セグ族のドレク・カンは、部族の実務は全て息子たちに任せているという、老年のカンだ。長い間『森林の民』第二位のセグ族を率いてきただけあって、その言葉は、例え静かであっても、まだ若年の部類に入るビリカ・カンにはない重みがある。
「ビリカ・カンよ……忘れられては困る。永きに渡り対立してきた我らがこうして同じ天幕の下にいるのは、一体何のためだ? 『蒼き狼』と『白き鹿』の聖なる血の合一、それはこのキャンベルの森と草原に生きる者たちの悲願のはず。
 それを、ここで潰えさせてしまうか?」
 髪はすっかり白くなっているというのに、濁りだしているその目は未だ鋭い。眼光に射られたビリカ・カンは言葉を詰まらせ、興奮に僅かに上げていた腰を渋々と下ろした。
 それからドレク・カンはこちら――ヨヨに視線を向け、
「そういうわけだ、カーナの王女。そちらの提案、やはり受け入れられぬ」
 眼光の鋭さは変わらない。だが、ヨヨの落ち着きぶりは崩れない。彼女は、むしろ笑みすら含んだ声で、
「……それは、『草原の民』と『森林の民』、双方の総意と見てよろしいのですか?」
「もちろん――」
「そんなはずがなかろう!」
 と、再びビリカ・カンが腰を浮かせる。そして、再びドレク・カンに食って掛かった。
「ならば問おう、ドレク・カン! 確かに、我らの蜂起によってルド・アルヴの姫君の御身が危機にさらされるのは本末転倒。だが! 王都に捕らえられたまま、かのお方が我らが盟主に輿入れできるとお思いか!?」
「む……それは――」
「我らが盟主、エンケ族ハノア家の最後の君は、正当なるキャンベルの王太子! そんな方との婚姻を、グランベロスが許すはずもなかろう! それどころか、アルヴ家の血を絶やすため、永遠に解放しないやもしれぬ!
 それで、本当に我らが悲願を果たせると思っているのか!」
「…………」
 今度はドレク・カンが押し黙る。そこを突き、ここぞとばかりにビリカ・カンは言い募った。
「ヨヨ殿、お分かりであろう。そちらの提案を全面的に受け入れ、我らは蜂起する。これこそが、我らの総意なり!」
「なっ……何を言うか、ビリカ・カン! 他の者の意見も聞かずに決めるとは、身勝手が過ぎるぞ!」
「黙れ腰抜けども! これしきの賭けにも出られん臆病者の意見など、聞くに値せんわ!」
「賭けだと!? 我らが姫のお命を、賭け金に使うつもりか!」
「そうでもなければ、この状況を打開できまい!」
「おのれ――それが『草原の民』の総意か!」
「起たぬ事を総意とする『森林の民』に、我らが総意がどうとか言われたくもない!」
 口論は口論を呼び、いつの間にか、天幕の中は一触即発の危険な雰囲気に支配されている。
 最終的には『フレイムヒット』辺りで一発制圧するとして――と、この事態の収集方法をいささか投げやり気味に考えながら、ビュウの目は、しかし一点に繋ぎ止められている。

 ビュウたちと対峙する形で上座に座るのは、この中では最も若い――まだ十六歳ほどの少年だった。
 他のカンと同じように伸ばした髪を後ろでひっ詰め、編み、垂らしている。髪で皮膚が引っ張られているせいか、黒瞳はやや釣り目がちだった。くすんだ白のローブの裾を膝の上でギュッと握り締めるその手は、白く震えている。
 その様子は、七年前のあの夏の日と、そう変わらなかった。ただし、あの時は父王を亡くした悲しみに震え、今は己の力のなさをままならなく思って震えている。
 少年と青年の境目。その不安定さを保つ彫りの浅い面差しが、固く、怒りとも嘆きとも吐かない色に染め上げられている。

 彼の名は、トゥルイ。
『草原の民』の第一位、エンケ族の族長、トゥルイ・カン。
 彼らの神『蒼き狼』の血を最も色濃く受け継ぐ、本来ならば、このキャンベル両王国の王太子と名乗るべき少年である。


 キャンベル両王国が「王国」と名乗る前から、その火種は常にあった。
 草原地帯に暮らす騎馬遊牧民族『草原の民』と森林地帯に暮らす狩猟民族『森林の民』は、遥かな昔からこの緑の大地の覇権を争って血で血を洗う闘争を繰り広げてきた。その年月、実に三千年。
 その事情が変わり始めたのが、今からおよそ千五百年近く前。マハール系の入植者がこの地に渡来し、何の境もなかった草原を壁で遮り、その内側に街を築き、農地を開墾し、――先住民族の理屈で言えば――勝手に国を建てた事による。
 もちろんこれを両部族が面白く思うはずもなく、こうして、二部族だけだった覇権争いが三つ巴へと変化した。
『草原の民』と『森林の民』が手を取り合い、新参者にして侵略者とも言えるマハール系入植者たちと戦わなかったのが、歴史の悲劇とも言える。二つの部族が入植者たちと敵対しながらも互いに相争っていた間に、入植者は入植者で、他国との外交を始め、自らの国をキャンベルの正当な国家と見なさせてしまった。しかもその国は、実質的にはマハールの傀儡国家なのだから、先住者たちにしてみれば余計に面白くもない。
 自分たちを育む大地が、知らない内に余所者の領土と化していく。これを悟った『草原の民』と『森林の民』は、初めて和解への道を歩み始めたと言っても過言ではない。――これが、およそ千二百年前の事。
 彼らは共に一つの国を築いた。それこそが、エンケ・ハノア=ルド・アルヴ両王朝――現在で言うキャンベル両王国の母体である。
『草原の民』の長、父なる『蒼き狼』の血を受け継ぐエンケ族ハノア家と、『森林の民』の頭、母なる『白き鹿』の血を今に遺すルド族アルヴ家。この両家による交代王制――ハノア家の王が立ったら、次はアルヴ家の王が立つ、という合理性も何もないシステム――こそが、永きに渡る両民族の紛争に一応の決着をつける、いわば妥協案だったのである。
 この後、エンケ・ハノア=ルド・アルヴ両王朝は、入植者王朝を倒し、キャンベル全土を統一する。――これが、およそ千年前の事。

 が。
 こんな事で両部族の紛争が収まるほど、両者の互いに対する憎悪と対抗心は根の浅いものではなかったのだ。

 元々、『草原の民』も『森林の民』も、族長会議による合議制を尊ぶ人種である。その性質上、即位した王が独裁に走る事は出来ないし、気に入らない王の意見をボイコットし、場合によっては族長会議で退位させる事も出来る。
 八百年ほど前から交代王制は破綻をきたし、草原地帯や森林地帯ではかつてと変わらない抗争が繰り広げられる事となった。王権は意味と効力を為さなくなり、王宮では入植者系の文官が幅を利かせる始末。特に『草原の民』は定住に意味を見出さず、そのためただ王都とされている少し大きめの集落――というのが、この遊牧民たちの王都観だ――の中心に据えられている王宮を軽んじてきた事が、この事態に拍車を掛けた。
『草原の民』は、悪く言えば好き勝手に草原を放浪するだけで、『森林の民』は一部が徐々に入植者たちと同化しながらも、『草原の民』の侵入を防ごうと長城を築きだす。そして入植者たちは、この国では余り力を持たない王宮で権勢を揮い、先祖の故国たるマハールと密接な関係を築いて介入させようとする。

 有史以来、常に分裂状態にあったキャンベル。
 そしてその状況が、今、ついに変わろうとしている。

 きっかけは、十年ほど前。今は亡きキャンベル先王、エンケ族のドニブル・カンの御世。
 この頃、『草原の民』と『森林の民』はかつて手を取り合って入植者王朝を倒した時以来の蜜月状態にあった。
 彼が考えたのは、交代王制の廃止と、『蒼き狼』と『白き鹿』の血の合一――つまり、エンケ族ハノア家とルド族アルヴ家の通婚である。そして、ドニブル・カンの嫡子トゥルイと、当時のルド族の長オン・カンの長女ファニカとの婚約が決められた。その後、両家の合意の下、ドニブル・カンの次のキャンベル王は、ファニカを娶ったトゥルイという事で内定した。
 ――が、状況は一変した。
 ドニブル・カンの逝去。入植者系文官たちの推挙によって交代王制を無視して即位したカンの第五妃、ルザ・カトン。ファニカの輿入れがまだだから、という理由でトゥルイの即位は先送りされ、今から四年ほど前に、キャンベル両王国は女王の独断でグランベロス帝国に無条件降伏する。
 属州となったキャンベルに派遣された駐留師団は、反乱防止のため、『草原の民』、『森林の民』双方から人質を要求された。もし反乱などした場合には、見せしめで殺すため。
 その中には、トゥルイの妻となるはずのファニカまでいた――


(……下手に蜂起すればファニカ姫が危ない。ファニカ姫が殺されたら、ドニブル・カンとオン・カンの夢見たキャンベル統一が泡と消える。この二人を民族の長と仰いでいた『草原の民』も『森林の民』も、その遺志を継ぎたいから、反乱には踏み切れていなかった。
 で、問題は……)
 族長会議ではご法度であるはずの罵り合いがエスカレートしていく中、思考をまとめたビュウは再びトゥルイを見た。
(彼が、どう出るか、だ)

 本来、この場で最も発言力を持つべきは、あそこに座る最も歳若い少年である。
 彼こそが、次期キャンベル王のはずだった。二つの民族の融和の象徴として、アルヴ家の姫を妃に据えて。
 しかし、状況が彼に発言を認めていない。よしんば認めたとしても、誰もそれを聞き入れはしない。
 十六歳。その若さが問題だった。

 ツンツン、と。
 服の上から誰かが腕を突く。それを見下ろし、そこに白い指先を見出して、ビュウは横目でその主を見た。
「……どうした、ヨヨ」
 小声で尋ねる。今にも剣を持ち出してきそうな罵倒合戦はまだまだテンション上り坂。小声で話していれば、誰も気付きはしない。
「どうする、ビュウ?」
「何が」
「この状況」
「……打開する方法が一つ」
「何?」
「トゥルイ・カンの一声」
「無理ね」
 ヨヨはあっさりと斬り捨てた。間髪も入れずに、余りにも素っ気なく。おかげでビュウはギョッとして、
「何で」
「あんな様子で、この状況を抑えられると思う?」
「……ま、無理だな」
 トゥルイの様子を再び目に映して、やはりビュウも即断した。
 良くも悪くも、トゥルイは若すぎる。それはつまり、経験不足という事。
 経験不足の若造に百戦錬磨のカンたちを抑えられるほど、キャンベルの遊牧社会は甘くない。
「……でも、貴方は彼が発言する事の方が状況を好転させられる、と考えてるのね?」
「当然だろ。彼は」
 と、僅かに顔を伏せて頭上を飛び交う罵り声に堪えているトゥルイを顎を微かに動かして示し、続ける。
「『蒼き狼』の正統、次期キャンベル王、『草原の民』第一位エンケ族のカン……――」
 彼を言い表わす言葉を次々と挙げていく。が、そのどれもが彼の権限を言い表わすには適当ではない。
 それに思い当たり、ビュウは隣のヨヨにも聞こえるかどうか、というくらいに声をひそめた。
「……彼に、その気があるかないか、だ」
「え?」
「『カーン』として立つ気が」
 しかし彼女には届いたようだった。こちらに僅かに向けていた顔を不意に正面に戻し、表情を改めた。
 眉を僅かに押し上げ、しかし口元は笑っている。
 その桜色の口唇が、開いた。

「トゥルイ・カーンは」

 その声は、いやに天幕の中に響いた。
 どんなに荒れる水面でも、一度落ちれば否応なく波紋を起こす雫のような――そんな、それこそ魔法のようなよく通る声音で。

「如何なさりたいのです?」



 その瞬間、誰もがピタリと言葉を発するのを止めた。
 腰を浮かせる者、あからさまに片膝を立てている者、敷板に手を突いて今にも飛び掛からんとしている者――その全てが動きを止め、ある者はきょとんとした、ある者は呆れた、ある者はギョッとした、そしてある者は明らかに咎める表情で、一斉にこちらを見た。
 その注がれる全ての視線を平然と受け止め、ヨヨは優艶に微笑む。
 それまで誰もに存在を忘れ去られていたトゥルイがハッと目を見開いて言葉を失う中、真っ先に声を上げたのは、『森林の民』第四位ソムル族のイリ・カンだった。
「カーナの姫君……失礼だが、今、トゥルイ殿の事を『カーン』と呼ばれたか?」
「そうですが、それが何か?」
 すんなり頷かれ、しかもニッコリ笑われ、イリ・カンはたじろいだ。が、すぐに持ち直し、
「その尊称が何を表わすか……知らない、とはおっしゃられますまいな?」
「えぇ」
「……では、苦言を呈させていただくが」
 と、前置きをして、イリ・カンが説明をしだす。誰にとっても、今更聞くに値しない説明を。
「トゥルイ殿は『カーン』ではなく『カン』……我々と同じ、一部族の長に過ぎない。そんな彼に、『カーン』という尊称は相応しく――」
「申し訳ございませんが、イリ・カン」
 その説明を遮るヨヨ。鼻白む彼を睨むように見据え、
「私は、トゥルイ・カーンとお話しているんです」
 ビリカ・カンとほぼ同年代であろう彼は、娘ほども歳の違う小娘の言葉に、あっさりと屈してしまった。幾度か口を開閉させていたが、すぐに悔しそうに唇を引き結び、ばつ悪げに押し黙る。
 一方で、イリ・カンを微笑んだまま打破してしまったヨヨは、再びヒタリとトゥルイに視線を定めた。
「如何、なさりたいのですか、トゥルイ・カーン?」
「……ヨヨ殿」
 この会合が始まったから初めて、トゥルイが声を発した。声変わりが終わったばかりの少年の低い声。そこに含まれる不安定さは、声変わりのせいか、それともこの状況のせいか。
「先程イリ・カンも言った通り、私は『カーン』では――」
「知っています。ですが、貴方はいずれキャンベルを統一される方でしょう? ならば、『カーン』とお呼びしても差し支えないでしょう」
「……クリルタイで認められていない限り、私が『カーン』を名乗る事は許されない」
 トゥルイは視線を伏せる。まるで、ヨヨの目から逃れるように。
 だが、そこに付け入られる隙があるのを、この少年はまだ気付かない。
「……ならば、如何されると言うのです?」
 彼女の声音が一変する。優しくたおやかな少女の声から、ヒヤリと冷たく厳然とした尋問者の声に。
「クリルタイで認められない……――大族長会議における合議制の重要性は、私も認め、そして称えましょう。ですが、紛糾するが故に何も決まらず、硬直していくばかりのそれが、本当に称えられるべきものですか?」
「…………」
 ヨヨの鋭い指摘に、トゥルイも、そして他の者たちも答えられない。
「皆が認めないから、会議で決まっていないから。……この草原の社会で、それはとても適切な大義名分ですわね。そう言っておけば、弱腰になっていても誰も非難しませんもの」
「弱腰だと!?」
 ビリカ・カンが色めき立つ。素人ならばその怒気だけで腰を抜かしてしまいそうなものだが、ヨヨはしかし軽く受け流して、
「違いますか?」
「当たり前だ! 我らを弱腰などと、小娘が好き勝手に!」
「ならば、決断なされませ」
 ヨヨの語気こそ鋭い。ビリカ・カンはうっ、と言葉を詰まらせた。
「それとも、トゥルイ・カーン……『カーン』として立たず、そしてクリルタイで決まらないからと蜂起もせず、王都の虜囚たる『白き鹿』の姫君を見捨てられますか? そして、違う娘をカトンとしてお迎えになられますか?」
 ――それは、見え透いた挑発だった。
 しかしその見え透いた挑発に、トゥルイは予想外の反応を示した。

「何を馬鹿な事を!」

 激昂した。
 怒鳴り、勢いのまま立ち上がり、眦(まなじり)を吊り上げ、顔を真っ赤にして睨みつけてくる少年の様子に、ビュウは内心感心した。
 否定するのは予測の内だった。だが、まさかここまで激昂するとは。
 そうして感情を露にする事が正しい事かどうか――君主としての目を持っているヨヨとは、意見が分かれるところだろう。だがビュウは、純粋に感心し、そしてトゥルイを見直していた。

「ヨヨ殿、何という事を――ファニカは私のカトンとなる女だ! 彼女以外に、私の『白き鹿』がいるものか! 彼女でなければ、私が『蒼き狼』たり得る理由がない!」

 草原と森の境で出会い、夫婦となった『蒼き狼』と『白き鹿』。
 その神話になぞらえて、トゥルイとファニカは結婚を求められている。『草原の民』と『森林の民』、双方の融和の象徴として。
 ――どこにでもある政略結婚。だがそこに、一つの救いを見出すなら。
 ……トゥルイは、ファニカを想っている。

 ビュウは横目にヨヨを見た。その一瞬だけ、ヨヨは視線を和らげていた。
 その眼差しを一言で言い表わすなら、……憧れ。
 彼の何に憧れているのか。こうも素直に感情を表に出した事か、それとも、誰かにストレートに思いを寄せられる事か。
 どうとも判断できなかったビュウは、ヨヨのその憧憬の眼差しを、見なかった事にした。

 しかしそのヨヨの柔らかさも瞬時に消え、冷徹とすら言える険しい表情が、その美しい顔に上る。
「ならばこそ、立たれませ」
 冷ややかな、そして厳然とした言葉。薦めるような言葉遣いでありながら、その口調はれっきとした命令だった。
「『カーン』として指導者となり、民族を率いて蜂起なさいませ。それこそが」
 トゥルイの表情もまた変わっていた。がむしゃらな怒りが消え、まるで不意に目が覚めたかのように、眼を僅かに見開いて、立ったまま静かにヨヨを見ている。

「このキャンベル両王国と、そしてファニカ姫をグランベロスから救う、唯一無二の方法でございます」

 ヨヨの言葉は、不思議な調子で天幕の中に静かに、しかしはっきりと響き渡る。
 その中、トゥルイの表情が徐々に変わった。憑き物が落ちたように少年特有の自暴自棄加減が抜けていき、それと交代して、だんだんと大人びた決意が面に浮かぶ。
 その表情の変化は、周りのカンたちと酷似していて――

「――エンケ・ハノアのトゥルイ・カンの名において……」

 その声は震えていた。
 それでも、彼は高らかに言い放つ。

「草原と森に生きる者の誇りを賭け、グランベロスの駆逐を宣言する!」

 族長(カン)としてではなく、王(カーン)としての言葉。
 天幕の中に響き渡ったそれは、さながら『蒼き狼』の託宣のように、皆粛然と受け取った。

 

 

 

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