―8―
その沈黙の中。
最初に動いたのは、ビュウだった。
彼は無言で寝台から離れると、テーブルに歩み寄り、そこにある水差しと銀杯を手に取る。ほんのつい数分前まで、自身が柑橘類を切っては入れていた、あの銀メッキの水差しを。
それを傾け、銀杯に水を注ぐ。柑橘類の爽やかな香気が、フワリとビュウの鼻をくすぐった。
水をなみなみと注いだ銀杯を持ち、再びヨヨの元へと戻る。ヨヨはまだ、打たれた頬を押さえていた。顔を伏せたまま、ジッと押し黙っている彼女に、
「ほれ」
と、無造作に銀杯を差し出す。ヨヨは顔を上げ、どこか虚ろげな眼差しをビュウに向けた。
ヨヨの生気が欠けたような緑の双眸と、ビュウの疲れと呆れを宿した藪睨みのような青の双眸が、互いをまっすぐに捉える。
少しして、彼女は無言でビュウから銀杯を受け取った。口をつけ、水を一気に飲み干す。
はぁっ、と大きく息を吐いて杯から唇を離した彼女の顔には、生気が戻っているように見えた。
改めて、彼は話し掛ける。
「少しは落ち着いたか?」
「……えぇ、おかげで」
答えるヨヨの声は、皮肉げだった。口の端をニィ、と歪めて、まだ少し赤みの残る左の頬に手をやり、
「貴方からは、拳骨を頭にもらった事はあったけど、平手を頬に受けた事はなかったから」
「そう強くやったつもりはなかったが?」
「自分の力の強さ、もう少し自覚したらどう?」
「それは失礼をいたしました、殿下」
肩をすくめながら白々しい台詞を吐いて、ビュウは、壁際に置かれていた背もたれのない丸椅子を手近に引き寄せ、座った。
「さて、まず何から話して良いやら」
道化めいた軽い口調。彼はヨヨを見やる。
「――何から聞きたい?」
「まずは、現状についての説明を。――反乱軍、ってどういう事?」
向けられたヨヨの視線は鋭かった。こちらを咎めるような鋭さだ。
そういう目が出来るほどには、頭は冷えたのだろう。
「最初の計画とは、随分様変わりした気がするんだけど?」
「そりゃ仕方ない。情勢は刻々と変化するんだ。それに対応しようとしたら、どうしても計画は変更せざるを得ない」
「なら貴方、私にこのまま反乱軍の旗印になれ、と?」
「俺の今のところのプランじゃ、その方が色々と都合がいい」
「では」
と。
言葉を切ったヨヨの語気は、強く鋭く、冷たかった。
「カーナを、再興させていいの?」
「……………………」
カーナ再興。
「私を旗印とする、という事は、つまりそういう事よ? 貴方、それでいいの?」
「――それについては、お前次第だ、ヨヨ」
「……卑怯ね。そうやって、決断をこっちに丸投げするのは」
「そうだな」
ビュウはあっさりと認めた。
「だが、現実問題として、これはそういう話だ。お前が旗印になるか否か、カーナ再興を本気で目指すか否か、再興させたとしてその後どうするか――全部、お前の意思如何で決まる」
向けられる眼差しも、向ける視線も、鋭利な刃物のように、鋭い。
「俺は、お前の騎士だ。お前に付き従い、守り、戦う。
それ以外に、何が必要だ?」
そう、続けて問うと――
「――そうね」
フッ、とヨヨは表情を和らげた。
「確かに、その通りね。貴方はそれで十分……」
それから、不意に思いついたように、
「でも今の言葉、出来の悪い口説き文句みたいね。もう少し捻られないと、意中の女性を落とすのは難しいわよ?」
「そういう事態は想定してないんで」
「…………」
ビュウの素っ気ない答えに、ヨヨは何故か沈黙した。フッと考え込み、しかしすぐに、
「まぁ、いいわ。話を戻しましょ」
と、彼女は改めて威儀を正す。
「とにかく、私の結論としては、別に旗印くらいならいくらでもやってあげるわ、って事ね」
「お前、さっきと言ってる事違わないか?」
「あれは寝ぼけてた上に少し錯乱してたから」
「では、旗印をやってもいい、というその真意は?」
尋ねると、ヨヨはニヤリと不敵に微笑んだ。
「人はね、変わるものよ」
「は?」
「三年も経てば、尚更、ね」
「そりゃどういう――」
「敵が、出来たの」
ヨヨの笑みは深くなる。
「潰したい敵と、戦いたい敵の、二つが」
その笑みは、どこか不吉なものを漂わせているのに、凄絶なほどに凛然と美しかった。
それを見てようやく、ビュウは実感した。
仕えるべき主君が帰還した、と。
「やっと出来た人生の楽しみだもの。それを満喫してから元からの計画を実行したところで、別に遅くはないわ。
それにこういう事は、私自身に利用価値がある内にやらないと」
己を持ち上げようとする臣下を揶揄する言葉。しかし、その言葉でビュウが触発されたのは、まるで別の事だった。
「そういえば、ヨヨ」
「何?」
「お前、グランベロスで何を求められた?」
問うた瞬間、ヨヨから笑顔がスッと消えた。
それに気付いていたが、ビュウは続けた。大事な話だからだった。
「さっき、言ったな。『ここでも、ドラグナーである事が求められる』って。
『ここでも』って事は、グランベロスでも求められた、って事か?」
「……そうね」
僅かな沈黙の後、ヨヨはあっさりと頷いた。
「そうね――つまり、そういう事ね」
「どういう事だ? サウザーの野郎が、ドラグナーの力を、って事か?」
「有り体に言ってしまえば、そういう事になるかしら。彼の真意は、結局私も良く解らなかったけど。ただ」
と、ヨヨは不意に左手をこちらに見せた。
正確には、左手首の、内側を。
そこにあるものを見とめて、ビュウは絶句した。
「三年前、王城が陥落した直後、私はトラファルガーに護送されたわ」
ヨヨは淡々と語る。
「最初は、私を本国で処刑するつもりだと思ったのよ。でも、その割りには待遇が良すぎてね……。だから、その辺りを確かめてみようとしたの」
「それで……?」
聞き返す声が震えていた。当のヨヨは、何でもない風に頷く。
ヨヨの左手首には、深い傷跡が一本、走っていた。
それ以外に跡がないところを見ると、何の躊躇いもなく、己の手首を深く切ったようだった。
「もっとも、手首を切って死ぬなら、相当深く切らなきゃいけない事は分かっていたのよ。だから、『この程度なら死なないかな』って目算つけて切って、まぁ、おかげでこうして生きてるわけだけど……面白かったわよ? 私が手首切ったのを見つけた、従軍女官たちの慌てっぷり」
その時の事を思い出したか、ヨヨはクスクスと楽しそうに笑う。
「他にも、サウザーとか、パルパレオスとか、皆私の自殺未遂に浮き足立って……。
おかげで一発で解ったわ。サウザーは、私を生かすつもりなんだ、って。生かして本国に護送し、何かに利用するつもりだ、って」
楽しげな口調から一転、そう告げる彼女の声からは抑揚が欠けていた。
だからこそビュウは、事務的な口調で本題となるべき問いを口にせざるを得なかった。
自分の命を危険に晒してまで、利用価値を判断しようとした彼女。ヨヨを思う臣下ならば、その自虐的な行為こそ追及すべきなのだろう。だが。
……ビュウには、解ってしまったのだ。その時、ヨヨが何を思ったか、自分を必死になって助けようとした敵国の者たちを、どのような心境で見つめていたのか、を。
きっと彼女は、グランベロスの者たちを嘲っていた。
そして同時に……――絶望、していたのだ。
「……それこそが、ドラグナーだ、と?」
「私の容態が回復して、ちょっとやそっとじゃ悪くならない、と侍医が判断した直後にサウザーが持ち掛けてきたのが、ドラグナーとしての力を貸してくれないか、って事。おかしかったわ。おかしすぎて」
フッ、と鼻で笑うヨヨ。
「本当に死のうと思った衝動を、抑えるのが大変だったわ」
「…………」
「でも、今思えば……――」
ポツリ、とヨヨは呟いた。
それは、本当に、ふと思いついた、という程度の何気ない口調だったのだが。
「あの時死んでれば、もっと楽な事になっていたのかしらね」
その言葉に、ビュウは思わず瞑目した。嘆息した。
余りにも痛々しかった。例えヨヨ自身が、その事について今現在どう思っていても。そう呟くその姿は、ビュウにとって、余りにも痛々しかった。
救えたはずなのに、救えなかった心がここにある――それを、まざまざと見せつけられるようで。
「――あぁ、気にしないで、ビュウ」
そんなこちらに気付いたヨヨが、気楽げに笑った。
「別に、今すぐにでも死にたい、ってわけじゃないから。ただ……――」
しかしその表情もすぐに曇る。
「さっきは言わなかったけど、ヴァリトラは、こうも言ったわ。『神竜の心を集めても、ドラグナーになれるかどうかはお前次第だ』って」
ドラグナー。
その、吐き気がするほどの尊称。
「そういう事なら、私……――」
彼女の声は、低く、絞り出されたような声音だった。
辛さと、怒りと、憎しみと……そんなものが、ない混ぜになった。
「ドラグナーなんかには、死んでもなりたくないわ」
「――まぁ、今はその話は置いておこう」
ビュウはやっと、それだけを言った。それだけしか言葉が見つからなかった。
話を逸らす以外に、彼女の目をその事から背けさせる方法が、見つからなかった。
「目の前に山積みになった問題は、それだけじゃないんだ」
「……そうね。その通りね、ビュウ」
フゥ、と。
溜め息一つと共に、ヨヨはやっと気持ちを切り替えられたようだった。あるいは、切り替えるきっかけがビュウからもたらされるのを待っていたのかもしれないが。
「まず第一に考えなければいけないのは、反乱軍のこれから、よね。どうせ貴方の事だから、策はいくらでもあるんでしょうけど」
「いくらでも、ってわけじゃないが……」
ビュウは腕組みをしてから、ヨヨに提案した。
「明後日の正午までに、中原の中央に行くぞ」
「中原の……中央?」
大森林地帯の南に広がる、広大な草原地帯。そこは、俗に中原と呼ばれる。
きっとヨヨは、頭の中でキャンベルの地図を思い描き、疑問符を浮かべている事だろう。中原の中央地帯には、これといった要衝も街も何もない。
だが、違うのだ。
明後日には、そこは、キャンベルでも一、二を争うほどの要衝となる。
そう仕組んだのだ。ビュウが。
「明後日正午、『草原の民』と『森林の民』、二部族二十四氏族の長たちが集まって、大族長会議を開く。それに出るぞ」
ヨヨはしばらく目を見開いて、ビュウの言葉の真意を探っていたが――
それを悟った彼女は、ビュウに、不敵に微笑んでみせたのだった。
〜第二章 終〜
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